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【古萬古焼 萩写 数茶碗】 [茶道具]

これは、なかなかのレア・アイテムです。

しかも、今の世相にぴったりのお道具ですので、是非お勧めしたいです☆




萬古焼 数茶碗 (6)-1.JPG


【古萬古焼 萩写 数茶碗】


幅   10.6cm~10.9cm

高さ   5.1cm~5.3cm

高台径  4.2cm~4.7cm

制作年代 江戸時代後期

箱    伝世箱




萬古焼は、古くは江戸中期の『沼波 弄山(ぬなみ ろうざん)』ににより始められたやきものです。

桑名の豪商に生まれ、幼少より覚々斎原叟や千如心斎に茶道を学んだ文化人でした。

あまりの人気により江戸にも招かれ・・・別邸と窯を築いたそうです。

弄山亡き後、萬古は衰退し・・・森有節による復興を待つことになります。

有節以降は、急須や造形細工物など、貿易ものを多く製作するようになりましたが、江戸期の萬古焼はいたって京焼を基にした茶陶が中心であったのは、弄山が茶人であったことによるものでしょう。


今回の作品、興味深い点が多々、有るのですが・・・まずは、作品自体を見てまいりたいと思います。


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一見、高取焼?にも見えますが、むしろ『萩』なのです。


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かっちりした造り込みです。

釉薬も丁寧にかけられております。

萬古焼 数茶碗 (5)-1.JPG



萬古焼 数茶碗 (6)-1.JPG


数茶碗で10客揃いなのです。


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10客完品です。


この、お茶碗・・・実は、私は過去に数度見覚えが有ります。

単体で。


三代だったか、四代の新兵衛として極めのついたお茶碗で、これに近似したものがあったのです。

しかし、一説で・・・これは『萩ではない』という見方もされており、では正体は一体?というのが10年以上前に思っておりました。


今回、中部地方の出物として入手したこの作品。


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萬古焼 数茶碗 (1)-1.JPG

『萬古焼』! 『萩写し』!


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伝世箱、に『年号』!も記されております。


『文政元(1818)年にこれを求む』とあります。


弄山が没したのは安永6(1777年)で、有節の窯が稼働し始めるのが天保年間ですので、その間のことになります。

余談となりますが、松阪の『射和(いざわ)萬古』は安政3(1856)年より7年間のみの稼働でした。


弄山は、プロデューサーとして窯の経営をしてたようで、職人は別に存在したといいます。

弄山存命中の製作品、もしくは文政元年頃に職人が製作したものと思われます。

分類としては、『古萬古焼』となります。


少し後の、赤膚焼の奥田木白もそうですが、江戸後期は『諸国の国焼の写し』の需要が高く、そのうち・・『萩焼』の写しが特に多く見受けられます。

おそらくその時期に、手に入りにくかったのでしょう。


この作品も、小ぶりの数茶碗で、使いよいのですが・・・

コロナ禍で加速した、『各服点』の濃茶様式にぴったりなのです。

薄茶用や、旧来の濃茶茶碗は数あれど・・・案外探しても見つからない、のがこのようなタイプです。


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萬古焼 数茶碗 (10)-1.JPG


見た目よりやや軽く、重ねることも出来使い勝手も抜群なのです。



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時代有り、作行きの味わい有り、の数茶碗であらゆる客人を愉しませること間違いなし、です☆


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※ご成約済みです。


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【永楽正全 黄交趾 百合鉢】 [茶道具]

しばらく、普通の(?)展示会がございませんので・・・さらっとした、作品紹介もちょこちょこ続けて参りたいと思います。


今回の作品は、『色がいい!』、掘り出し品です。



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【永楽正全 黄交趾 百合鉢】


幅    20.7cm×18cm

高さ   8cm

高台径  8.9cm

制作年代 大正~昭和初期頃



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百合、はかなり古い時期から日本に伝わったという話で、古事記や万葉集にも登場するようですが、江戸時代にシーボルトが生きた花としては持ち込んだのが最初と伝わります。


明治期には百合の球根が投機的な人気として、高騰し熱狂的な様相だったそうです。


さて、百合は百合でも黄色の百合・・・


黄色の百合.jpg


黄色の百合の花言葉は『陽気』



百合は、開花は『5~8月』ですが、植栽は『10~11月』で間もなくです。


この作品は、見事な開花の様相を、『器』に再現しておりますが、開花をイメージして植栽する時期にお使いいただく、というのもご提案するものです。


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大きすぎず、小さすぎないサイズは、今の時代の『主の菓子器』に合います。

もちろん、茶事での『預け鉢』にも最適なのです。


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正全は、得全亡き後・・・妙全を支えて永楽家を守った名工です。

ですので、妙全時代の作品の多くは正全によるものと言っても過言では有りません。


正全は15代目の永樂で、1880(明治13)年に14代 得全の妻である妙全の甥として生まれました。

建仁寺の黙雷宗淵より「正全」の号を受け、1932年(昭和7年)53歳で亡くなるまで・・・『正全』として活躍したのは、わずか5年間なのです。




この、即全時代などとは違い・・落ち着いた深みのある『黄交趾』は、当時ならではのものですね。



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共箱 甲

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共箱 裏



造形デザインといい、色といい、申し分ない作品です。

しかし、昨今・・・手頃な価格となってしまっておりますのは、遺憾ではありますが、逆にお愉しみ頂けるチャンスなのは間違いないのです☆


正全 百合鉢 (6)-1.JPG



※ご成約済みです。



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【長岡空味 古代手 大海茶入】 [茶道具]

ちょっと、珍しい茶入のご紹介です。


『楽山焼』です。


楽山焼は、松江藩の2代目、綱隆が1677(延宝五)年に山口の長門より萩焼の陶工である『倉崎権兵衛』を招聘し、窯を興させたのが始まりです。

もちろん、その当時は『藩窯』の技術は一大機密であり、人員の移動も容易では有りませんでした。

松江藩から、毛利候へお願いし頼みを聞いてもらったようです。


倉崎権兵衛は、萩の土と釉薬を用いて萩焼をベースに改良した茶器を製作しました。

特に、『伊羅保』の写しに長けており、『権兵衛焼』と云われ人気を博したのです。


その後、二代加田半六・三代加田半六・四代加田半六・五代長岡住右衛門貞政・六代同貞正(空斎)・七代同空大・八代同庄之助・九代同空味・十代空処・十一代空権と続き、現在は空郷が十二代を継承しております。


長岡家は、四代目で楽山焼が一時中断した後、継承した陶家です。

代々、茶味溢れる作風と確かな技術を持ち続けておりますのが特徴です。



さて・・・、今回ご紹介する作品は、初代辺りの『古楽山』のテイストを取り入れたという作品です。


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【長岡空味 古代手 大海茶入】


幅     8.8cm

高さ    4cm


制作年代  大正後期~昭和初期頃




この、鼠色のような肌合いは、古楽山の水指等にもみられる色合いです。


裏側の方はこんな感じです。


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上からです。良い蓋が添っております。


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蓋を開けて。


丁寧な薄造りです。



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底側です。



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仕覆です。



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空味の、比較的前期頃の作品かと思われます。



楽山焼 9代目である空味と、5代目の小島漆壺斎はともに、明治期までの茶道衰退の時期の苦労を乗り越え、抹茶茶道が再び脚光を浴び始める時期に活躍しました。


不昧公ゆかりの両家です。

空味は、不昧公没後100年記念の際に行われた茶会等に合わせて、製作に励み・・・また、その際に展観された、古器の名品の数々に刺激を受け、さらに雅味あふれる作風へと昇華していったと言われております。


そんな中でも、当作品は類例の少ない作品ですが、なかなかのものです。

底部に銘が無いため、共箱に加えて外箱として、当代である十二代空郷の極め箱が添えられております。


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空味 大海茶入 (2)-1.JPG




空味 大海茶入 (6)-1.JPG


お値段もほどほどで、お愉しみ頂ける作品です☆


※ご成約済みです。


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【堀内不識斎 茶杓二本入『松風』『村雨』】 [茶道具]

あまり、『茶杓』を手に入れることの少ない私です。

工芸的な魅力を感じないもので・・・[あせあせ(飛び散る汗)]

しかし、道具としての茶道具全般を普通に扱っていた時期から、変わらず好きな『字』を書かれるお茶人さんとして、良い出会いがあると扱わせて頂いておりますのが、『不識斎』です。


堀内家 五代目です。


保全との関りもあることから、余計に親近感もあります。


なにより・・・『筆』がかっこいいのです。


ということで、良いお茶杓が出ましたので、これは是非に・・・と思いまして☆



不識斎 茶杓 (5)-1.JPG


【堀内不識斎 茶杓二本入】


『松風』 竹 

『村雨』 煤竹


制作年代 弘化年間末~嘉永七年頃


共箱 利斎箱


2本入りです。

筒は別にしつらえられております。






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『松風』の方です。


いいですねぇ・・・『河濱焼』の時に、絵付けされてた時期とほぼ同じでしょう。

この、真ん中の『節』に景色がありますのが、まるで『鶴』を彷彿させます。


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『村雨』 です。

煤竹となっております。村雨が短時間にまとまって強く降る雨・・・・『群れる雨』からの意ともいいます。

その際に空が暗くなる様を現しているようです。

こちらの方は、メジャーな方の花押の変型判の方です。




堀内家五代目 不識斎 宗完 のちに、鶴叟と称します。

安永9年(1780)~嘉永7年(1854)

四代目、方合斎宗心の長男として生まれ、若い時期からから茶湯を修め、父を継いで摂津・高槻藩主『永井家』の茶頭を務めました。

七十五年の人生の間に、道具への関与も深く・・・好み物なども多く、高槻藩の縁でしょうか・・最晩年には『永樂保全』と共に『河濱焼』に参画し、絵付けを担当したりもします。

『絵』も能くします。


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これは、表千家に遺されている、不識斎筆による表千家の図です。

本物はカラーで、大和絵風の着色となっております。

堀内家は代々、表千家とも深く・・・表千家 八代の啐啄斎より茶の湯を学んだあと、九代了々斎に出仕しました。

了々斎が早世された後、幼くして家元を継ぐことになった十代 吸江斎を住山揚甫らと補佐し、千家を支えたのです。


茶道・歌・書とマルチな才能をいかんなく発揮し、堀内家の中興の祖といわれます。


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共箱です。

拙作 茶杓

松風 村雨

ふしき






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箱と杓は利斎の手を借りております。

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当時の受け取りも遺されております。



さて、『松風』と『村雨』の組み合わせ・・・なんでしょう?


『古今和歌集』の、第八巻、で在原行平の詠んだ『離別』


 『立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』


平安時代の『須磨』に住んでいたという『松風』『村雨』の二人の女性とのお別れの歌とされているものです。


須磨で伝わる伝説では、この2人は姉妹で、多井畑の村長の娘達でした。

本来の名は『もしほ』と『こふじ』といいます。


須磨に『汐汲み』に出たところ・・・天皇の勘気を蒙ったことで、須磨に流罪とされていた『在原行平』と出会い、『松風』『村雨』と名付けられ寵愛されました。

のち、行平は赦免されて都に帰ることになります。

その際・・・『松の木』に形見の『烏帽子』と『狩衣』を掛けて残し・・・


『立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』

この時に詠んだ別れ歌です。


『松風』『村雨』の姉妹は尼となり、行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだといわれております。


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『松風村雨堂』 これが、今も残るその庵の跡です。



この物語は室町時代に謡曲『松風』として知られるようになり、浄瑠璃や歌舞伎などにも波及したそうです。


・・といった題材を2本入りに取り入れた、不識斎。深いですね!


さてさて、上記のご説明の中に・・・茶道具にまつわるあれやこれや、が散りばめられております。

これは、席中で遊び放題ですよ~


※ご成約済みです。



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【抱桶 水指】 [茶道具]

新暦の7月・・・ちょっとまだ梅雨?というような雨も挟みつつ・・・大変湿度・気温の高い日が続いております。旧暦では、未だ『水無月』です。


2022年は6月29日~7月28日が水無月の旧暦6月にあたります。


水無月の『無』は『の』を指しまして、『水の月』という意味にもあたるようです。


田植えの時期でもあり・・・『水』というのもが様々なものに命を与え、また様々なことが生み出され、始まる・・・という風に感じられるものなのです。

とはいえ、実際の気候としては、梅雨が終わって日照りが続いて『水が無いな~』というシンプルな感じ方も、またしかり、ですね。(^^;


今回、ご紹介するお道具ですが、『水』をとても感じられるものです。



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【抱桶 水指】


幅  16.5cm

高さ 19.5cm

製作年代 江戸時代後期頃





抱桶・・・『だきおけ』と読みます。



抱桶というものは、水を入れて手許に置い暑さをしのぐために、抱いたものであるといいます。

確かに、涼しい感じがします!


本歌・・・・というか、元の有名なものは、『書院茶道』が中心であった、鎌倉時代の足利義政が所持し、転用・使用して台子に合わせたものです。

南蛮毛織で、産地であるインドのムガール帝国の名をモールと訛ったことによるといわれ、染織品の名称であったものでしたが、金属を使用したものでも毛織(モール)と称するようになりました。


この有名なものは、足利義政が所持したものと伝えられ、のちに三条西実隆が藪内宗把にこれを譲り、その後、子が居なかった為、利休へと伝わります。

利休から再び藪内家の剣仲が引き継ぎ、燕庵名物として六代比老斎まで伝来したが、西本願寺文如上人に贈られ、以後は本願寺に伝えらましたが、のちに売り立てにより世に出てしまうことになりました。


さて・・その後、『草庵茶』へと移行し、台子中心から変化を遂げていった茶道の中で、抱桶水指は『涼』を感じさせるお道具として、マニアックながらも伝わり続けたのです。


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『モール』のお道具らしく、『打ち出し』により丁寧に形成されております。


抱桶水指 (5)-1.JPG


ディティールも、非常に端正に。


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蓋との合口もしっかりしており、軽やかながらも『ぴっちり』、合体します。


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状態は、大変良い方です。


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底部です。


抱桶水指 (1)-1.JPG

伝世箱


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古代中国の端を発するの『五行説』というものがあります。

『相生』と『相剋』という二つ関係性があり・・・よく『相性がいい』といいますが、それは五行『相生』のことです。


『五行相性』をみてまいりましょう。


◎『木生火』(木は火を生ず)

木が燃えて火となり、木と木が擦り合わされて火となって燃えさかるという関係 (木→火)


◎『火生土』(火は土を生ず)

火が燃えたあとには必ず灰が残る。灰とはすなわち土のことです。
漢民族 が住みついた黄河流域は、文字通り一面の黄土と黄塵と黄色の濁流です。その黄土とグレイの灰とを同一視し、灰を土と考えたのです。(火→土)



◎『土生金』(土は金を生ず)

土が集まって山となり、山から鉱物(金属)が産出するという関係 (土→金)


◎『金生水』(金は水を生ず)

鉱物(金属)は腐蝕して水に帰り、また溶融すれば液体(水)になるという関係 (金→水)


◎水は木を生ず 『水生木』(水は木を生ず)

水を養分として木が生育する姿を示す (水→木)




この中からも、『金属』と『水』というのは深い関係にあり、相性がいいものなのです。


抱桶水指 (3)-1.JPG



古(いにしえ)、の見立て道具というのも、深い意味も含めて大切に使われてきたものなのでしょう。


7月7日の『小暑』も過ぎ、『暑中』になりました。


涼しげなお道具にて、『暑中見舞い』申し上げます☆


※ご成約済みです。


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【二代 吉羽與兵衛 腰黒 薬缶 即中斎 箱】 [茶道具]

たま・・・には、「普通」のお道具、のご紹介でも。(^^;


といっても、そうしょっちゅう出てくるものでも、ございません。



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【二代 吉羽與兵衛 腰黒 薬缶 即中斎 箱】



腰黒薬缶、というものは「茶道」では欠かせないお道具です。

しかし、最後に少し登場するだけ、なので・・・こだわる人はこだわりますが、なんでも良いのでは?という御仁もいらっしゃいますが・・


そこは、実は一番「違い」が出るお道具でもあったりするのです。



全てのお点前も終了し、お客様方も『お菓子』も『お茶』も頂き終わっており・・・主客との問答も一通り済んで、少しの静寂と、席のエンディングを迎える直前の『凛』とした、雰囲気が部屋を満たしている時・・・・

お点前さんが入ってくるその時!

目にする唯一のアイテムなのです。


一番純粋に注目されるお道具かもしれません。


そこで、お稽古道具でも一緒・・・というわけにはいきません。


解る人には『一目瞭然』、なのです。



表流では、『中川浄益』の6~10代辺り、そして『11代』の書付物、『高木治良兵衛』の少し前のもの、位しか選択肢が無いのです。


その間に入る、スカっとした腰黒薬缶が、この吉羽與兵衛作品なのです。


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新品、では無いのですがかなり綺麗な状態であります。


『腰黒薬缶』というものは、元は『薬』を煎じて飲む為の道具であったことからという由来です。


古い浄益のものなどは、その名残として小さな『丸い輪』が付いたりします。

それは蓋が本体と離れて不明になることを防ぐのに、鎖でつながれていたことからだそうです。


元は『薬缶』と『火箸』の製作を任されて代々続いております中川家は、千家十職の初期から千家に仕え・・・最後の11代は、生前中、『十職の長』として長らく貢献しておりました。

この作品は、その11代の時にリメイクしたデザインを元に作られております。

伝統のデザインを、現代風なフォルムと色合いで席中の最後を華やかに締めくくるように演出されているともいえます。


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2重箱です。


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二代目が、襲名直後の作品と思われます。

1970年台前半の作ですね。


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即中斎は、最晩年の筆、になります。


意外と、探すと無いのが・・・このようなお道具なのです。


ということで、やきものの取り扱いが主である当店ですが・・・こういうものも、嫌いでは無いのです。


※ご成約済みです。




二代 吉羽與兵衛さんの略歴です。(出典 吉羽家公式HPより抜粋)


1930年 初代 與兵衛の長男として生まれる 本名 宗敏
1947年 家業釜師の修行に入る

1972年 二代與兵衛を襲名 爾来京釜の伝統を厳しく守り、新しい創造を求めて研究製作に打ち込む

1974年 東京にて與兵衛襲名記念展
1975年 京都にて與兵衛襲名記念展
1981年 東京日本橋三越本店にて第一回個展 爾来三年ごとに個展を催す
1984年 広島にて個展および文化講演会「京釜から見た茶の文化」
1986年 岡山にて個展および文化講演会「京釜の製作とその見方」
1989年 名古屋三越本店にて第一回個展
1990年 京都にて個展

1993年 同門会愛知支部にて講演「京釜の製作とその見方」
1995年 茶の湯同好会夏期大学にて講演「京釜の生まれるまで」
2000年 茶の湯同好会夏期大学にて講演「芦屋 天明 京釜」
2002年 表千家北山会館定期公演会にて講演「京がま あれこれ」

2008年 長男柾人に三代與兵衛を譲り、二代惣與となる
2017年 86歳にて没す






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【内朱塗 茶籠揃 弘入・香山・浄益、青磁等】 [茶道具]

ここのところ、大阪美術倶楽部の研修会やら、なんやら・・で綺麗な花を見る機会に恵まれておりました。

桜はちょっと、出遅れて見逃してた感がありましたもので。。。


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京都国立近代美術館、では大阪画壇の展観がされております。

なかなかの、ボリュームだったのです。


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近くでは、遅い時期の桜も。


場所は変わって・・


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ネモフィラ、祭りです。


名前すら…馴染みのない花、ですがかわいくて、綺麗なものでした。


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そんな、お花見日和・・・といえば、『茶箱』『茶籠』です。


お点前としては、裏千家流ではきっちりとございますので、お稽古用をお持ちの方々もたくさんいらっしゃることと思います。


しかし、それ以上・・・こういうものの、『茶会用』という定義はなく、あとは『時代モノ』でしか存在せず、故に・・・全てが異なる『一点もの』であることになるのです。


中身も様々で・・・いろんな時代の、組み合わせる茶人様方の様々な趣向が凝らされております。

そんな、茶籠のピリッとした出物がございましたので、ご紹介致します。



いつもと、順番を変えまして・・・出していく様、でご紹介して参ります☆


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養生箱です。


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仕覆に包まれた茶籠です。


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【茶籠】


幅 19cm×16.5cm 高さ 14・5cm

明治末~大正初期


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蓋を開けてみます。


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内側は、朱の一閑張りです。



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中から・・・さらに、お仕覆を取り出します。


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展開してみましょう。


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【初代 眞葛香山 仁清意吉野山 茶碗】


幅 11.5cm 高さ 6.5cm 高台径 4.3cm

明治末~大正初期


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香山用の『亀の子』印です。



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【樂 弘入 赤茶碗】


幅 9cm 高さ 7.3cm 高台径 4.3cm

明治末期~大正初期



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窯変が良く、出ております。

印は、側面下部です。


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高台脇には、『十二代』の彫りが。


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【高台寺蒔絵 棗】


幅 6.1cm 高さ 6.6cm

時代 明治末~大正初期

京塗師



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上質な、蒔絵です。


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【牙 茶杓】


長さ 15cm 幅 1.6cm


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牙、の芯の部分を使用した上質な茶杓です。



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次は、こちら。


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【青磁 振出し】


幅 4.3cm 高さ 9.9cm


時代 江戸時代


口縁部、金直し



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この、茶籠揃い・・・は、この青磁を中心として、手に入れた茶人さまが、当時の『現代モノ』を誂えて製作されたものなのです。


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【染付富士之絵 巾筒】

幅 2.9cm 高さ 7cm

明治期

京焼


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『画所預 従五位上土佐守光貞』


土佐光貞の時代には、京焼では染付技術が有りませんでしたので、意匠を用いて明治期に作られたものです。おそらく三代道八辺りだと推測されます。


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【九代中川浄益 南鐐片木目 茶筅筒】

幅 3.5cm 高さ 9.3cm


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在銘です。


茶籠揃 (17)-1.JPG



青磁の振出を活かす為に意図され・・・きっちりと、明治末期頃にコストをかけて・・・名工たちの競演にて、仕立てられた茶籠揃いなのです。


なかなか、無い出物です!



※ご成約済みです。



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【城山窯 (永楽即全) 稲穂の絵賛 茶碗 三井高棟・苞子賛】 [茶道具]

【2022年3月3日 追記】



1618年、『織田有楽斎』が建築した『2畳半台目』・・・の茶室、が『如庵』です。


移築を繰り返して、大事に伝世した茶室です。


その名の由来は、有楽斎のクリスチャンネームである、『ジョアン?ヨハン?』からだとか。。。


元和4(1618)年に、京都の建仁寺の塔頭『正伝院』が再興された際に建造され、明治6(1873)年に正伝院は永源庵跡地に移転したが、その際に祇園町の有志に払い下げられました。

明治41(1908)年に解体せず原型のまま運ばれ・・・東京の三井家本邸へ移築され、益田孝『鈍翁』がこれを愛用しました。

その後、昭和11(1936)年に『重要文化財』に指定されます。

昭和13(1938)年に、三井家10代の『高棟』により、神奈川県中郡大磯の別荘へ移築されました。

昭和47(1972)年には、現在地である犬山へ移築され、昭和26(1951)年に『国宝』に指定されるのです。


その、大磯にて、三井高棟が大いに茶道などの日本文化・芸能を楽しんだ時期・・・庭窯として、生まれたやきもの、のご紹介となります。




城山窯 薄茶碗 (5)-1.JPG



【城山窯(永楽即全) 稲穂の絵賛 茶碗 三井高棟・苞子賛】


幅   13.7cm

高さ   7.1cm

高台径  5.5cm

製作年代 昭和19(1944)年

箱    三井高棟 苞子 懐紙貼紙




とても、作行きの良いお茶碗です。


まるで、茶人の心意気が表れているような上品な佇まいを感じます。


三井八郎右衛門・高棟、は三井財閥の楚を築いた人で、昭和8(1933)年に引退するまで48年もの長期に渡って、三井家の最盛期を支えたのです。


引退後は、神奈川県大磯の別荘『城山荘』に居を移し、茶道を始めとする文化芸能に勤しんで暮らしました。

その際に、三井本邸から『如庵』を移したわけです。

よほど、の茶の湯への入れ込みようですね。(^^;


今回は、永楽即全の手により、三井高棟夫妻が合作としたお茶碗のご紹介です。




城山窯 薄茶碗 (6)-1.JPG


『稲穂』が風になびいてる様、が描かれております。


これは、三井高棟によるものです。

花押も左下に。


城山窯 薄茶碗 (7)-1.JPG

おもて面と同じく、『箆』により斜めの意匠が取られております。

こちらも、稲穂をイメージしたものでしょうか。



城山窯 薄茶碗 (8)-1.JPG


さらに、回してみますと・・・


奥方であります、『苞子』による、『黄金の波』という歌が書かれております。


日の光を浴びた稲穂が風になびく様子ですね。


月の光、とも。。。


城山窯 薄茶碗 (9)-1.JPG



城山窯 薄茶碗 (10)-1.JPG


上から。


端正な造りです。


この『城山窯』というのは、永楽即全の襲名前に・・・さかのぼること、得全の時代より是非永楽家に、お庭焼きに協力してほしいという三井家の依頼に応えて、築窯されたやきものです。

三井高棟と永楽家の繋がりは深く、『妙全』の軸は高棟が授けたもので、この妙全時代に千家と三井家の庇護もあって・・・一時は困窮に瀕していた永楽家も復興することとなったのです。


昭和2年の妙全没後、わずか5年後の昭和7年には正全没し、昭和10年に即全が代を襲名することとなります。


その後、60年に及ぶ永楽家当主としての長い歴史が始まるのですが・・・・即全の最初のスタートは、実はこの『城山窯』なのです。


昭和12(1937)年に、大磯の三井家別邸に『登り窯』を築きました。



土ものや磁器もの、も製作されていたようです。


城山窯作品には、三井高棟の箱書きがあるものが多いです。


昭和20(1945)年まで断続的に、製作が行われていたようです。


この、城山窯での活動は、三井家の様々な所蔵品の研究や茶道についても吸収できる時期でもありました。

この城山窯での製作活動もあって、このお茶碗が生まれた昭和18(1943)年には、戦時下における『伝統的な工芸技術を保存する人』に資材と提供するための制度、『工芸技術資格者』に即全が認定されました。


これは、戦後の製作再開にも大いに影響を及ぼしたことは間違いありません。



城山窯 薄茶碗 (11)-1.JPG


箱根の大涌谷、小涌谷の土を用い、赤い柔らかめの土で造り、『城山荘』の土を釉薬に用いたようです。


城山窯 薄茶碗 (12)-1.JPG


『城山窯』作品では、永楽印は用いず、『城山』印となります。


城山窯 薄茶碗 (13)-1.JPG


高台脇



城山窯 薄茶碗 (2)-1.JPG

蓋裏、懐紙

このお茶碗が製作された1944年は、『即全』は既に『善五郎』を襲名後です。

世界大戦がはじまっており、世の中の世相が不安定な中・・・三井家の別荘でのひとときのゆとりある作陶期間であったのでしょう。


とても、丁寧な造りにやさしい仁清調の釉薬、そして三井高棟夫妻による絵付け、と風情ある作品に仕上がっております。

三井高棟さんにつきましては、三井家のご紹介ページからご覧ください。

https://www.mitsuipr.com/history/people/06/



城山窯 薄茶碗 (5)-1.JPG


このお茶碗は、三井高棟が88歳・・・・・『米寿』を記念して造られました。

『八十八』、と組み合わせると『米』


米・・・に因んで、稲穂、ということです。


八が重なることから、末広がりも重なって縁起が良いと言われます。


そして、還暦が赤色というように、米寿は『金茶色』


まさしく、そこまでお茶碗により演出されているのです。


一粒万倍(いちりゅうまんばい)・・・ひとつの粒から万倍の稲に育つ様を現す言葉です。


一粒万倍”日”は、日本の暦に古くからある吉日の一つです。

二十四節気(立春・夏至・立秋など)と、干支(甲・乙・丙・丁……と子・丑・寅……を組み合わせたもの)によって決められ・・・

「立春から啓蟄(けいちつ)の前日までは、丑と午の日」

「啓蟄から晴明(せいめい)の前日までは、寅と酉の日」

といったように、二十四節気の、節目と節目の間の2日が『一粒万倍日』となるのです。

大体・・・6日に1回、ひと月に5日、1年間に約60日あります。


そういう日にも合わせてお使いになるのも良し、でしょう☆



ちなみに、今年の残りでは・・・


3月:1・9・14・21・26

4月:2・5・8・17・20・29

5月:2・14・15・26・27

6月:9・10・21・22

7月:3・4・7・16・19・28・31

8月:10・15・22・27

9月:3・11・16・23・28

10月:5・8・11・20・23

11月:1・4・16・17・28・29

12月:12・13・24・25



『わずかなものが飛躍的に増えること』

一粒万倍日、は新たなことを始めるのに良い日、とも言われます。


まもなく、4月・・・いろんな節目をお迎えの皆様もいらっしゃるかと、存じます。

また、今のコロナ第6波もそろそろ収束の兆しも見え始めました。


心機一転、新たなスタートを切れることを☆



※ご成約済みです。



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【永楽即全 仁清黒扇面 茶碗】 即中斎 箱 [茶道具]

今回は、マニアック・・・では無いですが、永楽さんのなかなか出ない逸品のご紹介です。


『千家十職』の中の『土風炉師・焼物師』であります『永楽善五郎』家ですが、現在では十八代目である『陽一』氏が昨年襲名されております。


初代は室町時代に奈良の西ノ京の『西村』にて春日大社の供御器を作っていたことから、西村性を称しておりました。

晩年より、『土風炉師 西村善五郎』として名乗り出したとのことですが、伝世品も無く・・九代目までの作品はほとんど見ることは有りません。

おそらくは、使い捨ての供御器であったり、民生用のものであったりと、消費されるやきものばかりを製作されていたことと思われます。


実質的な永楽家は『十代了全』からとなります。


樂家の『了入』を兄のように慕い、また表千家の出入りとなり、隠居時に『了々斎』から名を授かったりという、了全の晩年時代からの活動で、その頃には養子に迎えた『十一代 保全』の力に拠るところも大きかったと推測されます。


そこから、千家道具の製作として現代まで脈々と続いてくるわけですが・・・・


歴代の中で、一番長命であったのが『十六代 即全』です。


先代である父、『十五代 正全』が昭和7(1932)年に亡くなった後、平成10(1998)年に80歳で亡くなるまでの長期に渡り、製作活動をしておりました。


その間に仕えた表千家家元は、『惺斎』『即中斎』『而妙斎』と3代に渡り・・・まさに、戦前期・戦後復興期・現代という時代を生き抜いた陶家です。


それが故に、作品数も多く、また作調も変遷がみられるのが特徴です。


その中でも一番の円熟期の作品がこちらです。



DSC_4701-1.JPG




【永楽即全 仁清黒扇面 茶碗】


幅   12.9cm

高さ  8.1cm 

高台径 5.1cm


製作年代 昭和30(1955)~40(1965)年頃


共箱  即中斎 書付



仁清黒、は野々村仁清の頃より存在し、永楽家では明治期の『十四代 得全』以降に見られるようになります。

黒、のお茶碗は『樂』が主役であったことが関係してるのかもしれません。


しかし、黒が背景となることで引き立つ、色絵の美、は確かに有り・・・それを表現するのに、従来の色絵よりさらに手間をかける必要があったのです。



全面に書き込まれておりますので、ぐるっと回してみましょう。


DSC_4702-1.JPG


正面の『梅』→『菊』『牡丹』


扇面の中に、金もふんだんに使用して描かれております。


DSC_4704-1.JPG


『富士』→『竹』


次は、内側に参りましょう。


DSC_4705-1.JPG



『菖蒲』です。


DSC_4706-1.JPG


少し回してみますと・・・


『薄』です。 見込みには『松』も見えますね。



DSC_4707-1.JPG


『青海波』です。


DSC_4712-1.JPG


仁清黒、というのは、通常の仁清写しの釉薬の後に、上絵付として黒色を塗り分けていくことになります。

クリーム色の仁清釉を残しつつ、絵付けにもかからないようにするので失敗は許されません。(^^;


さらに、仁清写より絵付けの色彩と配置のバランスが問われますので、事前のデザイン画の重要性も高くなります。


DSC_4713-1.JPG


高台部です。


仁清黒の中でも、このような逸品シリーズは、若干土の分量が多めで手にしたときの重厚な感じのことが多いように思います。



DSC_4698-1.JPG


2重箱になります。


DSC_4699-1.JPG


共箱部分です。この作品は最初から書付ありきでの特注作品ですので、甲書きの題字はありません。


DSC_4700-1.JPG


即中斎の昭和30年代の筆になります。


約60年ほど前の作品ですが、このスカッとした綺麗さは時代を感じさせません。


永楽即全の中でも、明治や大正のきれいさから、戦後現代への発展が進むにつれ、人が目にする新しいもの、綺麗なモノ、への感覚が移り行く中で、完成させた『色絵美』がこの作品なのです。


こののち、即全はこの技法・感覚を元にして『源氏物語』をテーマとした集大成へと、向かうことになるのです。


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【十代 中川浄益父子 戯画 茶碗一双】 共箱 十一代極外箱 [茶道具]

【2021年12月27日 加筆修正】




お道具、の中には・・・商い、として、もしくは美術として、生まれたものでは無いものがございます。

それは、『作りたい』、『差し上げたい』という気持ちだけで、純粋なものであります。


今回は、そのようなモノで大事に遺された、珍しい作品のご紹介です。



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【十代 中川浄益父子 戯画 茶碗一双】


十代作

幅 12.1cm 高さ 7.6cm 高台径 5.3cm


十一代作

幅 12.3cm 高さ 6.9cm 高台径 5.1cm


製作年代 昭和3(1928)年

状態 10代作の茶碗側面に共直し在り

共箱

十一代 極め外箱




『錺師(かざりし)』である、千家十職のひとり・・・『中川浄益』による絵付けのお茶碗という、大変珍しいものです。(^^;


しかも、親子でそれぞれ絵付けをされており、その名も『親子丼』。


では、作品を見てまいりましょう。


まずは、十代作から。


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『火箸』と『環』が描かれております。


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『昭和戌辰 贈 竹秋 安居軒 新居 水屋用』


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『十世浄益』


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お茶碗としては、大変端正な造りです。

「印」は「安」の文字を意匠化したものです。




十代浄益

本名を『淳三郎』号『紹心』

明治13(1880)年 ~ 昭和15(1940)年

九代の子で、早くから大阪の道具商のもとに修行に出される。父の死により家督を相続。

第一次世界大戦による軍需景気にのり負債を完済、中川家再建の基盤を作る。




次に、子である十一代の作を見てみましょう。


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『金槌』と形成中とおぼしき『金属』の絵が描かれております。


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『中川源吉 九つ』


9歳、ではなく・・・九つ、というところが、なんともかわいらしいです。


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見比べてみると、釉調も先ほどのしゅっとした完成された色合いより、なんとなく子供らしい感じもします。

お茶碗の造りにも、特徴がみられますので・・・焼成された窯元の指導の元、絵付けだけでなく形成にも手を入れたことがうかがえます。


DSC06610-1.JPG


2重箱になっております。


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十代の共箱により、詳細が記されております。


昭和3(1928)年の作であることが、分かります。


『竹秋』は旧暦での3月のことで、今では4月といことで春の時期です。


この頃は、昭和時代が始まり・・・ちょうど戦争もなく、世界恐慌の前年でもあり、平穏な時期でありました。

浄益家も、それまでの大変な時期を乗り越え、一段落しておりました。


なんとなく、この作品からもそのような時代の空気感・・とでもいうものが、伝わってくるような気が致します。



しかし、このお茶碗が生まれた11年後に・・・十代が亡くなり十一代が20歳にして、浄益家を継ぐことになります。

それは第2次世界大戦勃発の年であり、日本もその2年後に戦禍に突入していくという大変な時代背景でありました。


11代も大変な苦労をされ、なんとか千家と共に戦後復興と、茶道の発展に尽力することになります。


『十職の長』としてもながく努められておりました。



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『十代父子 戯画 茶碗 一双』


御謙遜され、戯画とおっしゃられておりますが、親子の貴重な戯れ・・・の時であったことも感じられる文字です。



伝え聞くところによると・・・同じ、千家十職である黒田正玄の縁者にあたる、指物師『石井安居軒』の新しく出来た家への贈り物として、五条坂にて製作と絵付けをしたようです。

両作品に押し印された「安」は、この安居軒のことを指します。



浄益家は、元は『火箸』と『環』を作っていた金物師であったところ、千利休と出会い、『薬缶』の製作を依頼され、かの有名な『北野大茶会』にて使用され、その出来栄えにより引き立てられたのが始まりです。

それまでの中川家は、鎧や甲冑の製作を生業とする家でした。


そして、二代目より正式に千家出入りの金物師、錺師として続いていくのです。



その元となった、『火箸』と『環』を親であり、当主であった十代が描き、その子であり・・・ゆくゆくは家業を継承することになる、十一代が『槌』で、これから製作をしていこうという絵付けをしており、これは家業継承・子孫繁栄などを込めた、一双茶碗となっているのです。


『完成形』と『未完成形』、どちらも・・・対となることで、その意義も美しく感じます。


それは、『親』と『子』の関係でもあり、世の中に不変の理なのです。



~後日談~


その後の調査により、もう1組存在したとも思われていたこの作品ですが、どうやら1点ものであったことが判りました。

そして、安居軒からまた戻ってきて・・・浄益家にて永らく保管されていたものが、11代の時代に展観に貸し出されることになり、その際に破損が生じて、の修繕だったそうです。

そして、その際に外箱の自極めが作成され、譲り渡されたという事情のようです。

あと10年遅ければ、このような事情等も永遠に判らないままになってしまうところですが、なんとかここに遺すことが出来ました。



※売却済みです。







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